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No.21  佐藤 英彦(さとう ひでひこ)

祭り太鼓が決めた一生
音を求めて楽器創作、親子コンサートも

遠くから祭ばやしの太鼓の音が聞こえると、まだ二、三歳の小さなその子は、まるで気が違ったみたいに全身を動かして踊り、太鼓をたたくまねをして、両親や姉を驚かせたそうです。

中学生になると、"東の祇園(ぎおん)祭り"といわれる有名な栃木県烏山の夏祭りに登場する大きな山車(だし)にのって太鼓をたたき鮮やかなバチさばきで故郷の人たちの評判になりました。

やがて宇都宮大学へ進み、いずれは先生にというのが親の期待でしたが、三つ子の魂何とやら…打楽器のプロになりたい一心で、東京芸大へ入学します。むろん腹をたてた親からの仕送りはありません。

ジャズバンドに入って、神田あたりの場末のキャバレーでドラムをたたきながら、苦学します。

今では、日本フィルハーモニー交響楽団の創立以来のメンバーであり、ティンパニ奏者として名をはせている佐藤英彦さんが、その子の成長した姿です。

「ぼくは内気でしてね。アユのようにうまく泳げない。石の下に閉じこもるイワナですね」などとおっしゃいますが、旺盛な探求心と奔放な創造力は、余人の及ぶところではありません。

二十年前、荒川で町工場を経営している友人の工員寮へころがり込み、経営不振のためいなくなった工員たちの部屋を自由に使って、打楽器の創作をはじめます。

例えば、ストーブの反射板をパラボラアンテナのように組み合わせ、共振させる楽器。鉄板にケロイド状のガラスを溶接させ、丸い風穴をあけて、原爆のいたみを象徴したものとか、巨大な皿のような銅板とステンレス板を使ってマグマの音を出すマグマシーン…など、これまでに二十点、創作したそうです。

佐藤研究室と銘うったその部屋へは、当時まだ学生だった吉原すみれさん(国際的な打楽器奏者)もよく顔を出したそうです。

「演奏家というのは、音をつくる人です。音の根源は何か、を知ることで、音への愛情が生まれるわけです。新しい素材を生かして音の源流をたしかめたい」

創作打楽器の初演奏会は、昭和四十七年二月、第二回は、六十三年二月サンパール荒川で開かれました。その時は、アンコールが十分も続いたり、音楽会には前代未聞の"投げ銭"があったりで、下町の人情深さに感慨ひとしおだったようです。

日フィルが夏休みの恒例にしている親子コンサートも、この人が生みの親の一人です。

子供たちにも、シンフォニーの一章だけでなく全楽章を聞かせようという趣旨で始まった親子コンサートは、ことしで十五年目。

このコンサートがきっかけで日フィルのファンになった人が多いそうです。趣味はゴルフですが、実技より練習器具の発明にこって、すでにいくつか特許をとったというところがいかにもこの人らしい。

六十一歳の荒川の住人は、これからも演奏活動を続けて、荒川に音楽の芽を育てていきたいと意気軒昂でした。

文・篠原大