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No.16  内海 桂子(うつみ けいこ)

ナンセンッ子、14歳で舞台
"説教強盗"とドサ回りも

荒川区地域振興公社(ACC)が主催する第二回「日暮里寄席」が、二月二十日夜サニーホールで開かれました。

こんどの寄席は、月並みではなく、幻の漫才常打ち寄席とされている「栗友亭」を再現、「とーく・トーク栗友亭」と銘打って、当時出演していたお歴々を招き、昔懐かしい東京漫才を荒川の人たちに"笑味"していただこうという趣向でした。

「栗友亭」は昭和三十年、南千住で雑貨商をしていた栗本友爾さん(故人)が、町内の要望にこたえ、二階を改造して常打ちの寄席にしたものです。

コロムビア・トップ・ライト、リーガル天才・秀才、内海桂子・好江さんらが芸を競ったほか、春日三球さんもここで漫才師の初舞台を踏んだといいます。

残念ながら三十四年に席を閉じてしまいましたが、サニーホールの楽屋には、栗本さんの未亡人はなさんが、九十歳ながら元気な姿をみせ、彼女を囲んでかつての漫才仲間たちが、にぎやかに話し合ったり、記念写真をとるなど、はたから見ても、ほほえましい光景でした。

さて、「浅草で生まれ、南千住で育ったナンセンッ子」とおっしゃる内海桂子さんは大正十二年生まれですから、若い人の知らない昔話が、ポンポン飛び出します。

例えば奉公。今ではほとんど死語になりましたが、幼い頃、借金の形(かた)に奉公にでたことがあります。奉公先の主人が不憫に思って一年で帰してくれたそうですが…。

奉公を終えて小学校へ通います。それがなんと夜学なのです。小学校に夜学があったなんて、文部省に聞いても分かりませんでしたが、本人がそういうのですから間違いありません。

学校へ通うかたわら、三味線、小唄、都々逸のおけいこを毎日続け、浅草で漫才の初舞台にでたのは、わずか十四歳の時でした。

大学卒の月給が当時二十円だったのに「三十五円の月給をもらって親たちを養いました。月給はそのまま、はたち過ぎまで上がりませんでしたけど」。

出獄した説教強盗の妻木松吉といっしょにドサ回りをしたこともあるそうです。妻木は、強盗に押し入った先で説教をするのが得意だったので説教強盗といわれました。 捕まったのは昭和四年です。

舞台の妻木は、ざんげ話を聞かせ、桂子さんはどろぼう除けのお札を客に売って、その何割かを小遣いにしたといいます。

二十八歳の桂子さんが十四歳の好江さんとコンビを組んだのは、昭和二十五年。

「わたしは小言をいわれるのがいやで、すぐ、やめちゃうッと口走るんですが、好江さんは決してやめるとはいわない。しごかれて当たり前だと思ってたんでしょうね。それにしても、もう四十年になりますね」と、感無量の様子でした。

昭和五十七年度に芸術選奨文部大臣賞、昨年は紫綬褒賞に輝いた桂子さんは、昭和天皇崩御の日(昭和六十四年一月七日)、亡き天皇に思いを捧げて、こんな歌を詠んだそうです。

植物を愛しめされし大君の
みまかれるこの日春の七草

文・篠原大