トップ   >  荒川の人  >  No.10

No.10  このみ ひかる(このみ ひかる)

ナゾナゾ大好き、クイズ台本も
『ぴょこたん』いまや650万部

生まれも育ちも南千住。今でもそれが誇りです。小さいころ近所のご隠居さんと行った千住大橋で耳にした、一錢蒸気の音が忘れられません。

このみひかるはペンネーム。本名の君野和司の君野をもじってつけました。いま六十一歳。昔は、かつ坊と呼ばれてました。家業は魚屋、といっても仲間うちで上物師(じょうものし)という活魚専門店。注文があると仕出しもしました。よく配達もしましたよ。

ぼくを背負ってくれたご隠居さんが、判じ物、つまり、なぞなぞが大好き。露天市で、「さしてもさしても血を見ぬ物は」なんて冷やかし、「物指し」と答えられ、つい買わされるのを見聞きして、自然になぞなぞが身につきました。

それに酒屋の若主人の弟の、ぼくより十歳上の八(や)っちゃんから猿飛佐助などの物語を聞かされ、雑誌まんがの模写の特訓も受けて、小学三年生ころから、将来はまんが家になろうときめていました。

昭和九年入学した第一瑞光小学校(現在は廃校)では、自由時間にやった絵入りでたらめ冒険物語にみんなあとひき豆。ぼくはスター気取りでした。もっとも高学年に進むと江戸川乱歩の「怪人二十面相」の連続物などをやる強敵が現れ、スターの座も転落しましたが…。

でもこうした"努力"のせいか、五十歳の処女作の絵入り「なぞなぞあそび1 おはようぴょこたん」(あかね書房)は百万部、今まで全二十九巻で六百五十万部のミリオンセラーです。子どものころの生活をまんが入りで描いた「なぞなぞ下町少年記」(筑摩書房)「欲しがらないで生きてきた」(光文社)も小中学生によく読まれ、ファンレターも来ます。

戦争で魚屋は廃業。本所の夜間商業学校を出て、三ノ輪から戦後は立川市と転々としましたが、まんがの勉強はずっと続けていました。

十九歳の時、いきなり小学館に飛びこんで売り込み、童話作家の小川未明さんの息子さんの編集者に見こまれ、初めて仕事を受けることになりました。

幼稚園誌から学年別全誌の原稿を書き、「女学生の友」の編集者だった作家の永井路子さんにもお世話になりました。「きらめくばかりのユーモアのセンス。大胆不敵なジョーク。それでいて心の傷みのわかる人」と、「欲しがらないで…」に、身に余る推薦の言葉ももらいました。

テレビ時代に入って各局でクイズ番組の台本を書き、あげくに出演したりと"大活躍"でしたが、盲腸をこじらせて腹膜炎を起こし、五十二年にテレビと縁を切りました。そして始めたのが「ぴょこたんシリーズ」です。生活様式が洋風化し、〈底なしの青天井なーに〉-〈かや〉といっても、幼児にピンとこないので、ずいぶん苦労しました。

今は石神井公園近くに住んでいます。南千住に帰ろうと思いながらつい帰りそびれて…。しかし、熱い思いは今も変わりません。小学枚の同級会には何をおいてもかけつけますし、お天王さんの祭りと開くと血湧き肉躍ります。インチキ手品師のいた夜店もなつかしいなあ。来年は孫にもハッピ、はんてんなどを新調し、ぜひ行きます。

それと、ぼくの人生の原点の千住大橋は、隅田川に初めてかかった(文禄三年=一五九四)のに、どうも永代橋や清洲橋などに押されっ放し。もっと売り出す方法はないですかねえ。

文・真下孝雄