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No.3  吉村 昭(よしむら あきら)

満月に凧上げ、いい気分
紙芝居、映画…少年の思い出

吉村さんは昭和二年、日暮里町五丁目(今の東日暮里六丁目)で生まれました。幼いころの日暮里の記憶は――

「二歳のとき、ドイツの飛行船ツェッペリン号が日暮里の空を飛んでいたのをはっきりと覚えています。私は九男一女の八男ですが、三男の兄貴にだっこされて、上空を見上げていました。三河島方面から黒っぽい飛行船が、すうっと視界を横切っていくのを目撃したのですよ」

空にまつわる思い出は多く、昭和十七年四月十八日に自宅の物干し台から、東京初空襲に飛来した米軍機も目撃したそうです。オレンジ色のマフラーをした繰縦士の顔がはっきり見えたということです。

物干し台で凧(たこ)上げをするのが、小学生時代からの吉村さんの楽しみでした。

「夜中に凧上げしたことも始終あります。満月の真ん中に凧が浮かんだときはいい気分でした」

いまも凧上げには、自信があるそうです。

「小学校時代のお小遣いは一日二銭。実家は製綿工場をやっていましたが、商家の子は小さいころからお金の使い方を覚えなくてはいけない、という考え方なんですね。そのころは駄菓子屋がいたるところにあったので、銅貨を二枚にぎって、さて何を買おうかと毎日が楽しみでした。おでん屋の引き売りはしょっちゅう来るし、紙芝居も見なくてはならないし…。にぎやかだったのは、八月のお諏方さん(西日暮里三丁目・諏方神社)の縁日でした。屋台がいっぱい出て、このときはお小遣いも五銭にふやしてくれました」

吉村さんが小学生のころ、歩いて行ける範囲に映画館が七軒ありました。正月などはどこも満員盛況。

「六歳のころから、家には内緒で映画館通いをしていました。無声映画で、弁士がつく活動写真です。中学は開成ですが、中学時代は上野の『鈴本』によく通いました」

映画館や寄席のほかに古本屋にもよく足を運んだそうです。中学生のときの蔵書は二千冊。「空襲で焼けてはたまらないと思って、石油カンに文庫本などを二百五十冊ばかり詰めて、庭に埋めました。四月十三日の空襲で家は丸焼けになりましたが、石油カンの本は無事で、今も手元に何冊か残っていますよ」

吉村さんは小さいころから、近所付き合いの大切さを教えられたそうです。

「『人さまのご迷惑にならぬよう』と母から始終しつけられました。家が密集していると、しぜんに気配りが必要になってくるのでしょうね。家の前の道路掃除も両隣の分をしあったり、町内に不幸があったらラジオの音を低くしたりするとか…」

「戦災で私の住んでいた地区はすっかり変化しましたが、兄が家業を継いでいるので、年に数回は日暮里の町を歩きます。そんなとき、昔の顔なじみが今も元気で畳職などをやっていて、ひょっこり出会ったりするのはいいものですね」

文・藤村健次郎