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No.2  村上 信夫(むらかみ のぶお)

明るい笑顔、声も魅力
日暮里の風土が育てた人柄

連想ゲーム風にいえば、帝国ホテルといえば村上信夫さん。たっぷりとふくよかで、そのくせりりしい、あの料理長をすぐ思い浮かべます。明るくざっくばらんな人柄で調理場のふんいきを明るくし、会う人をたちまち魅了しますが、第三日暮里小学校卒業の日暮里育ちとうかがって、得心がいきました。

「毎日、ほんとうによく歩き、よく遊びました。七、八人ひきつれて千住大橋を渡って、荒川で魚をとりました。 四つ手網を持って、帰りはバケツ二杯にいっぱいでした。私、六十七歳ですけど、おかげで脚は丈夫です」

よく響くバリトンで、わんぱく少年時代を語りながら、村上さんはたのしそうです。

「勉強はダメですから、教室ではじっとおとなしくしてるんですが、放課後になりますとね……」

その時は村上少年の出番です。ズックの提げカバンを家へ放り投げると、谷中墓地、上野の森、上野松坂屋、縁日……もうどこへでもすっ飛んでいくのです。手製のパチンコでギンナンをとって、料理屋へ持っていく。目当てはキャラメルのごほうびです。夜は夜店のカーバイドのカスを集め、あき缶に詰めて爆発させる……。

ハッハと笑う、声と顔がすてきなので、つられてこつちも笑ってしまいます。

生家は神田の洋食屋。日暮里にあった支店には、よく文士が出入りしていました。そのひとり、村上浪六が名付親で、浪六の本名「信」をもらったのだそうです。

小学校五年の年、両親と死別します。そして小遣い稼ぎに工夫をこらすのです。

当時の日暮里は職人の町。クッキー屋では裸の職人がクッキーを焼いていました。そこで容器を洗ってお駄賃をもらう。家具屋ではニカワをとかし、鍛冶屋ではフイゴを吹き、どこでも坊や、坊やと可愛がられました。

「兵隊でソ連に抑留されたとき、ノコギリを焼き戻して料理用ナイフを作りました。何でも覚えとくもんです」

心身ともに育つ大事な時期に、日暮里の自然と人情に存分に浸ったのです。学校教育も、点数で人間をはかることはしませんでした。

「課外授業といって、歴史の時間には国立博物館、理科は科学博物館というぐあいに、しよっちゅう連れていかれました。発掘も、先生に誘われて大森や埼玉なんか、ずいぶん行って掘ったものです」村上さんは、仕事に疲れて帰ると、好きな日本刀を眺めて神経を休めます。古美術も好き。自分でも書をよくします。その源も、たどればここに行きつくようでした。

こうみてくると、日暮里は村上さんを形づくつた大切な風土です。月一回、帝国ホテルで開く「村上信夫のフランス料理の夕ベ」が、予約もとれないほど盛況なのは、この人柄にもよるのでしょう。

来年は帝国ホテルの創業一世紀。村上さんが小僧に入って半世紀。記念すべき年です。

文・小川津根子